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新名神高速道路建設に伴う伊坂城跡第67次発掘調査現...滋賀県多賀町2015/02/07

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テキスト引用

新名神高速道路建設に伴う
伊坂城跡(第6・7次)
発掘調査現地説明会資料
① 空から見た伊坂城跡(北西上空から)
NEXCO 中日本 ( 株 ) 提供 2014年5月 24日撮影
 平成 26年 11月 23日
三重県埋蔵文化財センター1 ② 竹や木を伐採した直後の伊坂城跡(北上空から)
NEXCO…

…NEXCO 中日本 ( 株 ) 提供 2014年5月 24日撮影
1 はじめに
あさけ
いなべ
 伊坂城跡は、朝明川と員弁川に
員弁川
はさまれた標高83m??丘陵上
に立地しています。頂上からの眺
めは素晴らしく、伊勢湾はもとよ
り、知多半島も遠望することがで820
19
18711
22
21910
23
朝日丘陵1??っ
きます。また伊坂城の南には、八
12
ぷう
風道が朝明川右岸沿いにのびてい
ます。
 八風道は、伊坂城が造られた戦
国時代(今から400~500年
前 ) には桑名と近江を結ぶ重要な
街道でした。そのため、八風道沿
かよう
いには、萱 生城をはじめとして、2八風道1345
14
凡 例
15
城館
中世の遺跡63
垂坂丘陵
朝明川
16
1701:100,000
1.伊坂城跡 2.西ノ広城跡 3.西ヶ広遺跡 4.菟上遺跡 5.広永城跡
6.埋縄城跡 7.北山城跡 8.花扉城跡 9.善正寺城跡 10.市場城跡
11.中野城跡 12.源治山城跡 13.萱生城跡 14.桶尻谷中世墓 15.大矢知
城跡 16.大矢知陣屋跡 17.久留倍遺跡 18.志知城跡 19.島田城跡 20.
志知南浦遺跡 21.額田城跡 22.高塚の墟城跡 23.星川城跡
多くの城が点在しています。
③ 伊坂城跡と周辺の遺跡
 それでは、伊坂城はどのような
城だったのでしょうか?発掘調査
で明らかになったことを見ていき
ましょう。22km
第5次調査区
第6次調査区
第4次調査区
第7次調査
第7次
調査区
第7次調査区
曲輪1
曲輪3
曲輪2050m
④ 第6・7次調査の範囲
2 調査の範囲
 伊坂城は、東西 650m、南北 130mの範囲
に及ぶ山城です。ふもとには屋敷地が広がるこ
とが、これまでの発掘調査で明らかになってい
ます。今年度は、お城の本丸・二の丸にあたる
くる わ
曲輪1・曲輪2を中心に約1万㎡を調査してい
ます。
3 曲輪1の成果
 曲輪1は、一辺 50mの方形で、四方を高さ
ど るい
2mの土塁に囲まれています。土塁の内側には、
ほっ たて ばしら たて もの
おも や
城主が住んだとみられる掘 立 柱 建 物(主 屋 )
ど こう
のほか、数棟の掘立柱建物・井戸・溝・土坑な
どが見つかりました。掘立柱建物(主屋)は、
最大で6間×4間(10.8m× 7.2m)の大き
さだった可能性があります。この建物の西側で
とこなめ
かめ
は直径約1mの常滑焼の大きな甕が見つかりま
した。
⑤ 曲輪1の掘立柱建物で見つかった常滑焼の3大きな甕
⑥ 曲輪1の掘立柱建物(主屋)
(東
から) 最大で6間×4間の建物
だった可能性があります。
⑦ 曲輪1と曲輪2の間の堀
(北から) 右側が曲輪1、左
側が曲輪2です。人や5mの
棒の長さから、とても深い堀
であることがよくわかります。
この堀の底を道として利用し
ていることも大きな特徴です。4 屋敷地
堀切
曲輪2
曲輪3
曲輪1
城道0100m
S=1:2,000
⑧ 伊坂城の全体図 黄色の線が、屋敷地から曲輪1を結ぶ城の道です。堀切付近から、道が何
回も折れ曲がっていることが分かります。この「折れ」によって、敵は見通しがつきにくくなり
よこ やがます。さらに守る側は、敵の正面と側面から矢を射かけることができます(横矢掛け)。この「折れ」
をたくさんつくることによって、城の守りは固くなるのです。
14165347
1082
12
11
15
139曲輪3
曲輪1
曲輪2020m
⑨ 曲輪1・2・3の見どころ 1 土塁 2 掘立柱建物 3 井戸 4 溝 5 貝殻出土土坑 
6 土坑 7 櫓門 8 礎石建物 9 石つぶて 10堀底道 11??まど? 12門? 13階段状
遺構 14貝殻出土地点 15堀切5 やぐらもん
4 見つかった櫓門
 曲輪1の入口では、板石6
枚が並んで見つかりました。
そ せき
これらは門の柱を据えた礎石
と考えられます。
 門を正面から見ると、礎石
は2石ずつ3列に規則正しく
並んでいます。礎石の一辺は
平 均 80cm??、 最 も 大 き な
ものは 93cm??す。
 礎石の並び方・大きさなど
から、門は櫓門だったと考え
られます。この門は2階建て
で、上部の櫓は廊下のように
なっており、門の左右を守る
ど るい
高さ 3.5mの土塁を行き来で
きる構造だったと推定されま
す。櫓門の大きさは、廊下を
かけ渡す部分で幅9mに達
し、高さは6m以上の大きさ
に復元できます。
 礎石が極めて大きいことか
ら、櫓門も大きなものだった
ことが想像できます。伊坂城
と同時代・同規模のお城でこ
の規模の櫓門が採用されるこ
とは極めて稀です。
⑩ 曲輪1で見つかった櫓門(東から)
ちくま
⑪ 櫓門のイメージ図(長野県千 曲
あらと
市荒砥城跡の例を参考に作成)6 5 曲輪3の礎石建物・石つぶて
そ せき
 櫓門の南側の土塁では、礎石建物が
見つかりました。礎石は、直径 30??
~ 40??程度の石を使っています。石
が見つかったのは、3間×1間の範囲
ですが、本来は3間×2間だった可能
性があります。
 さらに礎石建物の南側には7m×3
mの範囲に多数の石がまとまっていま
した。この石は直径 15??~ 20??程の
大きさで、高い所から眼下の敵に投げ
つけて撃退するための石つぶてと考え
られます。
⑫ 曲輪3の礎石建物(北から)
⑬ 曲輪3の石つぶて(北東から) 7 6 曲輪2の成果
 曲輪2は、一辺 20mのいびつな方形で、四方を土塁に囲まれています。ここでは、か
まどと考えられる土坑や、門と考えられる溝と小穴、階段状の凹凸などがみつかりました。
さらに曲輪の北側の平坦面で大量の貝殻が見つかりました。この他、土塁の中からも貝殻
が出土しています。
⑮ 門跡と考えられる溝と小穴(南から) 曲輪2の入口
⑭ かまどと考えられる土坑(南から)土が
焼けており、炭の層も確認できました。
部分にあたります。中央の縦長の溝部分に門があった可能
性があります。
⑯ 大量に見つかった貝殻 伊坂城跡では貝
殻が大量に見つかります。
⑰ 階段状の凹凸 堀底道から曲輪2に登っていく部分
にいくつかの段があります。曲輪2の入口に向かって、階
段のようになっていたのかもしれません。8 7 伊坂城の城主
せいよう ご れい い きょう
か す か べ たろう ざ
え もんのじょう
 江戸時代末期の記録『勢陽五鈴遺響』などによると、春日部太郎左衛 門 尉、もしくは
い さか た ろう ざ
え もんのじょう
えいろく
伊坂太郎左衛 門 尉が城主で、永禄 11年(1568年)に織田信長の軍勢に攻め落とされて
一族は滅亡したことになっています。ちなみに春日部氏と伊坂氏は同族関係にあったとみ
られます。
しんちょうこう き
てんしょう
 しかし織田信長の一代記を記した『信 長 公記』には、天 正 元年(1573年)に「いさか」
氏は北勢地域を治めていた他の領主といっしょに人質を送って信長に降伏していることが
のぶかつ
記されています。さらに、信長の二男信雄が北伊勢を治めていた頃に、その家臣団構成を
ぶんげんちょう
記した『織田信雄分限帳』に「伊坂五左衛門」、「伊坂才助」、「伊坂長左衛門」、「伊坂太郎
一」など多数の伊坂一族の名がみられます。
 仮に、伊坂城の城主を伊坂氏とすれば、永禄 11年に織田信長の軍勢に攻め落とされた
可能性は低くなります。さらに、出土した土器から、伊坂城は 16世紀後半にも存続したうの
可能性があります。江戸時代末期の記録を鵜呑みにするわけには、いかないようです。
⑱ 伊坂城関係年表
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てんもくぢゃわん
 天目茶碗・すり鉢・大甕などの中世
陶器が出土しました。これらの多くはせと
とこなめ
瀬戸や常滑で焼かれたものです。またはじき素焼きの赤い焼き物、土 師 器 の皿や、
は がま
かまどに利用する羽釜なども出土して
います。
みん
そめつけ
 この他、中国(明)の染付皿、古銭、
と いし
ひ なわじゅう
たま
貝殻、砥石、火縄銃の弾などが出土し
ました。
 土器は、16世紀前半のものが多く、
少量ではあるものの 16世紀後半のも
のも出土しています。この傾向は、ふ
もとの屋敷地と同じです。
⑲ 出土品 手前から、古銭、明の染付皿、瀬戸の皿です。
9 まとめ
(1)伊坂城の時期
  出土した土器から、伊坂城は 16世紀前半に活動のピークがあること、16世紀後半にも存
 続していた可能性が高いことが考えられます。
(2)伊坂城のもつ意義
  伊坂城の大きな特徴として、巨大な櫓門を建てていたこと、多数の「折れ」を設けることで
しょくほうけいじょうかく
 防御性を高めていることなどがあげられます。一方、織豊系 城 郭(織田氏やその影響を強く
 受けたお城)には、天守閣や石垣、多数の瓦を使った建物が伴います。伊坂城はこうした織豊
 系城郭とは異なる特徴を持ち、一線を画します。
  これらのことから、伊坂城はこの地域での城づくりをもとにして、それを高度に発達させた
 技術で築かれたと考えられ、櫓門は次の時代に負けない規模を誇ります。まさに、地域におけ
 る城づくりの最高到達点として伊坂城は高く評価できるのです。
  また、巨大な櫓門は、中世城郭としては全国的に極めて稀で、城郭研究や建築史を考える上
 で貴重な存在といえます。さらに伊坂城跡の調査成果は、この地域の歴史や城づくりの特徴を
 明らかにするだけでなく、各地の城郭との比較にも役立つことでしょう。伊坂城のもつ学術的
 な価値は極めて高いものと考えられます。
伊坂城跡 (第6 ・ 7次) 発掘調査現地説明会資料
(新名神高速道路発掘調査ニュース「新あさけのいにしへ No.23?)
三重県埋蔵文化財センター 〒 515- 0325三重県多気郡明和町竹川 503
TEL:0596- 52- 1732/ FAX:0596- 52- 7035http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/maibun/
四日市整理所 〒 512- 8064三重県四日市市伊坂町 126- 1
TEL:059- 363- 3195/ FAX:059- 363- 31962014年 11月 23日
10

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