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紀伊山地の霊場と参詣道世界遺産登録一周年記念三重県...滋賀県多賀町2015/02/07

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「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録一〇周年記念
三重県教育委員会
歩いて旅する!世界遺産の道「熊野参詣道伊勢路」
編集
馬越峠道の石畳(紀北町)
七里御浜(熊野市)
獅子巖(熊野市)

本書は、平成二六年一〇月一四日、東京都中央区日本橋室町の「三重テ
ラ ス 」 で 開 催 し ま し …

… ま し た 対 談 、『 第 一 回 に ほ ん ば し 世 界 遺 産 ゼ ミ ナ ー ル
い て 旅 す る ! 「 世 界 遺 産 と な っ た 道 ― 熊 野 参 詣 道 伊 勢 路 ― 」』 を も と に 、1内容を一部加えたものです。
な お 、本 文 中 の 破 線 箇 所 に つ い て は 、巻 末 の 用 語 解 説 も ご 参 照 く だ さ い 。
コメンテーター
伊藤文彦
コーディネーター
伊藤あや
対談者プロフィール
斎宮歴史博物館学芸員
コメンテーター
伊藤文彦
大 学 で 考 古 学 を 専 攻 し 、三 重 県 教 育 委 員 会 に 文 化 財 保 護 技 師 と し て 就 職 。
遺跡の発掘調査をはじめ、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」や三重県
内の史跡の保護・活用を担当。現在は国史跡斎宮跡の調査と研究を手がけ
ている。
フリーアナウンサー
コーディネーター
伊藤あや
三重県内を中心にテレビやラジオのパーソナリティなどを務める。
マイクを片手に県内全域を歩き回り取材を重ね、その魅力を多くの人
に 伝 え た い と F M 三 重 で は「 あ や の み え 旅 」と い う 番 組 を 立 ち 上 げ た 。
二〇一二年にはピースボートで世界一周を経験。2 プロローグ3 伊藤あや
本 日 は 、『 歩 い て 旅 す る ! 「 世 界 遺 産 と な っ た 道 ― 熊 野 参 詣 道
伊 勢 路 ― 」』 と 題 し ま し て 、 コ メ ン テ ー タ ー を お 迎 え し 、 世 界 遺 産 「 紀 伊
山地の霊場と参詣道」が、世界遺産になぜなったのか、その価値や魅力は
何か、そしてその楽しみ方などについて語っていただきます。私は、本日
の進行役の伊藤あやと申します。
それでは早速、本日のコメンテーターをご紹介します。三重県多気郡明
伊藤文彦と申します。私は、三重県で遺跡の発掘調査を行う、
和町にございます、斎宮歴史博物館の伊藤文彦さんです。
伊藤文彦
文化財保護技師として三重県に勤めています。世界遺産「紀伊山地の霊場
と参詣道」については、その保護や他県などとの調整を担当してまいりま
した。現在は、明和町にございます、国史跡斎宮跡の調査と研究に携わっ
伊 藤 さ ん は 、「 伊 勢 か ら 熊 野 へ 聖 地 巡 礼 歩 き 旅 復 活 プ ロ ジ ェ ク
ております。
伊藤あや4 ト」を主宰され、有志のグループで実際に伊勢から熊野まで歩かれた経験
があるとうかがっております。本日はそのあたりのお話もお聞かせ願える
と期待しております。実は私も一人旅が大好きで、よく国内や海外に出か
けます。伊藤さんのお話を楽しみにしておりました。本日は、どうかよろ
伊藤文彦
本日は、平成二六年七月七日に世界遺産登録一〇周年を迎えま
よろしくお願いします。
しくお願いいたします。
伊藤あや
し た 、「 紀 伊 山 地 の 霊 場 と 参 詣 道 」 に つ き ま し て 、 い ま 改 め て 世 界 遺 産 と
しての価値を明らかにし、将来に何を伝え、残していくべきかを、コメン
テーターの伊藤さんのお話から導き出せればと思っております。そのため
に、いくつかお聞きしたいことを私の方でご用意いたしました。伊藤さん
どうぞよろしくお願いします。
にはそれに答えていただくかたちで、進行させていただきます。
伊藤文彦5 伊勢参りと熊野詣6 伊藤あや
さて伊藤さん。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」も今年で
登録一〇周年を迎えましたね。その中でも三重県は熊野参詣道伊勢路が世
界遺産に含まれていますが、私も三重県に住む人間として、うれしく思い
ます。地元では「熊野古道」として親しまれているこの道、伊勢神宮と熊
野 三 山 を 結 ぶ 道 と い う こ と で す が 、 私 、「 伊 勢 へ 七 度 ( な な た び )、 熊 野 へ
三 度 ( さ ん ど )」 と い う の を 聞 い た こ と が あ り ま す 。 一 生 の 間 に 、 伊 勢 神
宮へは七回参り、熊野へも三回詣でるのが良いという意味だそうですが、
伊勢と熊野の関係、たいへん大きなご質問だと思います。伊勢
伊勢神宮と熊野はどういう関係にあったのでしょうか。
伊藤文彦
と 熊 野 の 関 係 と な り ま す と 、ま ず 江 戸 時 代 の お 話 か ら 始 め た い と 思 い ま す 。
江戸時代、庶民による伊勢参宮、お伊勢参り、が盛んに行われていまし
た。とくに、周期的に起こった「お蔭参り」と呼ばれる、大勢の人々が熱
狂的に伊勢神宮に参るものがよく知られています。それで、伊勢神宮に参7 拝した人はそこからもと来た道を帰っていく、というわけではありません
で、参宮の後、さらに旅を続けるのです。伊勢から西へ進んで、隣町にあ
たる現在の度会郡玉城町の田丸という町まで進みます。実はこの町が分岐
点で、まっすぐ西へ進むと伊勢本街道という街道をとおって、現在の京都
や大阪へ、田丸で南に進むと熊野方面になります。この熊野へ向かう街道
こそが、伊勢神宮と熊野三山を結ぶ熊野参詣道伊勢路だったわけです。
関東地方や東北地方から来て、伊勢参りを済ました旅人は、田丸にたど
り着いたら、京都などの見物に向かうか、南に下って熊野へ向かうか決断
し、旅を続けたわけです。つまり、江戸時代に伊勢神宮へ参拝した人が次
そうですか。江戸時代の人は、いったん旅に出ると、なかなか
に向かう巡礼地、これが熊野三山、そういう関係だったのです。
伊藤あや
帰らなかったのですね。当時は電車も自動車もない時代ですから、歩くの
が基本になるのでしょうが、歩いて旅を続けていくのは、さぞかし大変だ8 熊野参詣道伊勢路9 はい。私も経験あるのですが、歩いて旅をするのは本当に大変
ったでしょうね。
伊藤文彦
ですね。ところが、非常に多くの人が実際に歩いて旅をしていますね。ま
たそういう記録や書物も多く残っています。先ほどの「伊勢へ七度、熊野
へ三度」という話は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などの中でも記さ
れ て い る の で す が 、こ の 書 物 に は 、弥 次 さ ん と 喜 多 さ ん が 伊 勢 参 り の た め 、
江戸から伊勢へ向かう道中が面白おかしく描かれています。弥次さん喜多
さんの場合は、伊勢に参ったあとそのまま、大和、現在の奈良県を経由し
て大坂に向かいました。これはさきほど、田丸で分岐してまっすぐ西へ向
かう伊勢本街道を通ったと思います。
弥次さん喜多さんのお話は物語ですが、実際の旅日記として残っている
ものとしては、江戸時代の後半、越後、今の新潟の鈴木牧之という人が、
伊勢、熊野三山、さらにその先も巡礼旅をしていまして、その時の見聞を
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まとめた『西遊記神都詣西国巡礼』というものがあります。この時、鈴木
牧之は、伊勢参宮ののち、熊野参詣道伊勢路を経て、新宮の速玉大社へ向
かったことがわかります。
このほか、修験者の野田泉光院という人物が旅したときの日記『日本九
峰修行日記』では、伊勢参りを済ました後、伊勢路をとおって熊野本宮へ
江戸時代の伊勢や熊野への旅の様子はそのような書物からもわ
向かった話も残っています。
伊藤あや
平 安 時 代 ま で 遡 る と 、 例 え ば 、『 い ほ ぬ し 』 と い う 紀 行 文 を の
かるのですね。では、それより前はどうだったのでしょうか。
伊藤文彦
こした増基法師という十一世紀前半頃の人物がいるのですが、この人は京
都を出発し、淀川を下って大坂の住吉へ、そのまま現在の和歌山市を通っ
て、紀伊田辺から中辺路という道を通って、熊野本宮へ向かっています。
熊野本宮から新宮に回り、三重県に入りまして、現在の熊野市の花の窟、
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そ し て 楯 ヶ 崎 と い う 景 勝 地 に 立 ち 寄 り 、松 坂 を 経 て 、京 都 へ 帰 っ て い ま す 。
また、同じく平安時代の終わり頃になると、皇族や貴族らが熊野詣を行
っています。皇族といっても、天皇は来ないのですね。天皇を退位した上
皇とか、仏門に入れば法皇とも呼ばれますけども、そういう人が貴族を引
き連れてくるのです。
平安時代の終わり頃の歌人に藤原定家という人がおります。この人は、
小倉百人一首の撰者というほうがわかりやすいかもしれません。この藤原
定家は、後鳥羽上皇の熊野詣に随行していまして、詳細な日記を残してい
ます。建仁元年(一二〇一年)のことです。これによりますと、京を出立
して、淀川を下り、大坂の住吉から、やはり和歌山回りで熊野三山に向か
い ま し た 。 こ の 時 、「 九 十 九 王 子 ( く じ ゅ く お う じ )」 と 呼 ば れ る 、 熊 野 三
山の途中、要所、要所に設けられた祈りの場所に立ち寄り、奉幣つまり神
に供物を捧げたり、あるいは読経などを行い、紀伊路を進み、中辺路を本
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宮に向かったようです。
本 宮 か ら は 、熊 野 川 を 下 り 、新 宮 へ 、
そして那智大社へ向かい、その後、那
智から本宮へ直接向かう陸路を通って
本宮へ戻り、そこから元の道を通り帰
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京しています。これが当時の皇族や貴
古く、平安時代の皇族や貴
族の一般的な熊野詣の行程だったわけ
です。
伊藤あや
族の人たち、上流階級の人たちという
ことになるのでしょうが、そういう人
々の熊野詣は、都から大坂、和歌山回
りで熊野まで往復するだけで、伊勢路
滝尻王子(和歌山県田辺市)
そうですね。伊勢路をわざわざ回って帰ることはなかったよう
は通らなかったのでしょうか。
伊藤文彦
です。当時もう一人、伊勢路を歩いて旅した人物に西行がいます。西行は
歌 人 と し て 非 常 に 有 名 で す 。 彼 が 熊 野 へ 参 詣 し た 際 の 歌 は 、「 山 家 集 ( さ
ん か し ゅ う )」 と い う 歌 集 に 多 く 残 っ て い ま す 。 西 行 も 熊 野 詣 の 際 、 新 宮
か ら 伊 勢 に 向 か っ た よ う で 、「 み き 島 」 と い う 所 で あ ま 人 、 海 に 潜 る 「 あ
ま 」 の こ と で す が 、 そ の 「 あ ま 」 に つ い て の 歌 を 詠 ん で い ま す 。「 み き 島 」
は現在の熊野市の二木島か、尾鷲市の三木里のことと思われます。
増基法師の例といい、西行の例といい、古くは、都から紀伊路回りで熊
野へ参詣した後に、伊勢路を新宮から伊勢へ向かって旅をしたのは、諸国
それでは当時の伊勢路は、伊勢から熊野へ向かう参詣道として
を行脚する僧侶ぐらいなのかもしれません。
伊藤あや
は、まだそれほど利用されていなかったということになるのでしょうか。
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伊藤文彦
ところがそうでもないのです。平安時代の終わり頃になります
が、後白河法皇、NHKの大河ドラマ『平清盛』で松田翔太さんが演じて
いた、あの人です。ドラマの中で、よく歌を独特の節にのせて歌っていま
したよね?あれが「今様」という当時流行していた歌なのですが、後白河
法皇はその「今様」を集めて『梁塵秘抄』という書物にまとめているんで
す。その中の一節には「熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ
遠し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず」という歌がありま
す。つまり、この頃には伊勢路が紀伊路と並ぶ熊野への参詣道として少な
平安時代の終わりから鎌倉時代へと変わっていく頃には伊勢路
くとも都の人々は考えていた、ということがわかります。
伊藤あや
鎌倉時代の話を少しいたしますと、現在の四日市市にある善教
もすでによく知られていたのですね。そのあとはどうなるのですか。
伊藤文彦
寺というお寺に大きな阿弥陀仏の像があるのです。その仏像の体の中にお
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さ め ら れ て い た 文 書 が あ り ま し て 、 こ れ を 『 作 善 日 記 ( さ ぜ ん に っ き )』
と呼んでおりますけど、一体何が書いてあるかというと、今の三重県の四
日市市や桑名市の周辺に根拠地をおいていた藤原実重という地方の武士
は、もう本当にすごい大金持ちといいますか、豪族でして、その人の日々
の信仰の記録が書いてあるのです。
たとえば、熊野三山へ盛んに米とか物資を寄進したり、実重は、彼自身
も熊野詣を行っていますが、普段から、熊野へ向かう道者さん、いわば修
行僧ですね、これに対して、お風呂沸かして入れてあげたり、食事をだし
たり、熊野へ進物を託し道者を送り出していました。ようするに、伊勢と
伊勢と熊野のかかわりはよくわかりました。それでは、江戸時
熊野はこの時代にもつながりがあるわけです。
伊藤あや
代に大勢の人が伊勢へ、さらに熊野へ向かったということですが、実際に
そういう参詣の旅に出たのはどういう人たちなのでしょうか。いわゆる普
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じつは、当時の農民だったり、商家の奉公人だったり、そうい
通の庶民の人でも旅にでることはできたのですか。
伊藤文彦
う人もこういう参詣の旅へでることができたのです。たとえば、伊勢への
「お蔭参り」は、抜け参りともいわれ、使用人が雇い主に無断で伊勢参宮
を行うことをいいます。無断であっても、伊勢参りならば許される、とい
う風習がありました。神宮のお札など、確かに参詣したという証拠を見せ
ればよかったみたいです。また、道中は、さほど路銀を持ち合わせていな
実はですね、伊勢神宮は内宮に皇祖神、つまり天皇の祖先神で
伊勢神宮へお参りすることは、昔から誰でも可能だったのです
くても、沿道で施しを受けながら旅を続けることもできたといいます。
伊藤あや
か。
伊藤文彦
すが、これを祀っていましたので、本来は皇族や公家が天皇の代理、勅使
として参宮が許されるだけでした。その後、平氏など、宮中で地位を得た
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武士も参宮に加わりますが、鎌倉時代、室町時代と戦乱が続くと、次第に
伊勢神宮への信仰が衰退していきました。
そ こ で 「 御 師 ( お ん し )」 と よ ば れ る 下 級 神 職 が 、 全 国 各 地 を 訪 れ 、 伊
勢参宮への勧誘、参拝者の宿泊の世話、外宮においては、祭神で農業・商
売の神である豊受大神への信仰を商家や農民層に布教活動を行ったので
す。農民にとっては、御師が布教に際して配る「伊勢暦」が重宝で、暦に
よ っ て 年 間 の 季 節 の サ イ ク ル を 知 り 、農 業 に 役 立 た せ る こ と が で き ま し た 。
これにより、全国に農業の神である豊受大神への信仰心が高まったものと
当時の農民といえば、時代劇などを見ますと、年貢を厳しく取
思われます。
伊藤あや
り立てられて、苦しい生活を強いられたようなイメージがあるのですが、
確かに、当時の農民には、年貢の負担や田んぼの耕作を放棄し
そんなに自由に伊勢参りができたのですか。
伊藤文彦
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て逃げ出してしまうのを防ぐた
めに、他国への移動の規制があ
りましたが、伊勢参りは例外的
に農民の旅行が認められる理由
となっていました。
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その結果、農業に関する情報
交換や技術交流が盛んとなり、
稲の品種改良も進み、農業は江
戸時代に随分と進歩することに
もなりました。そうなると、多
少なりとも暮らしに余裕も生ま
れ、さらなる伊勢参宮を可能と
しました。
伊勢暦(三重県総合博物館所蔵)
場 所 に よ っ て は 、そ れ で も 伊 勢 ま で の 旅 に は 経 費 が か さ み ま す 。そ こ で 、
村で寄り合って皆で少しずつお金を出し合い、くじ引きで代表者が伊勢参
りをするというシステムが作られました。これを「伊勢講」といいます。
そうして伊勢に参詣した人のうち、その後田丸で「笈摺(おい
庶民にとって、伊勢参りは生涯に一度は叶えたい夢でした。
伊藤あや
ず る )」 と い う も の を 身 に 着 け て 、 熊 野 を 目 指 す 人 が い た と い う こ と も う
かがったりするのですが、その「笈摺」を身に着ける意味は何だったので
しょうか。また、伊勢参りだけで終わらず、なぜ、遠く熊野へ向かったの
ま ず 、「 笈 摺 」 に つ い て で す が 、 こ れ は 着 物 の 上 に 羽 織 る 袖 の
でしょうか。その目的は何だったのでしょうか。
伊藤文彦
ない薄い衣で、旅をするときに荷物を入れて背中に背負う箱を「笈」とい
うのですが、それを背負って着物が擦れて破れてしまうのを防ぐために羽
織るものなのです。
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こ の 場 合 、「 笈 摺 」 を 羽 織 っ た の は 、 熊 野 参 詣 の た め 、 と い う こ と で は
なく、熊野那智大社にある青岸渡寺を一番札所とする、西国三十三所観音
霊 場 巡 礼 の 正 式 衣 装 だ っ た た め で す 。 ま た 、「 笈 摺 」 は 一 説 に は 死 装 束 と
もいわれ、巡礼中に万一のことがあった場合には、その衣装のまま埋葬し
てもらうとのことでし
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た。巡礼が終わると、
「笈摺」を奉納し、死
衣装を脱ぐことで自ら
は生まれ変わる、とい
う意味があったようで
す。
その「笈摺」は、伊
勢の町を出てすぐの、
笈摺
田丸の城下町などで販売もしていまして、旅人はそこで衣装を手に入れれ
平安時代に皇族や貴族が行った華やかだった頃の熊野への参詣
熊野へ参詣する人も、時代により変化があったということです
ば、突然に思い立っても巡礼に向かえたようです。
伊藤あや
よね。
伊藤文彦
は 、 道 案 内 で あ る 「 先 逹 ( せ ん だ つ )」 と 呼 ば れ る 人 物 の も と 、 作 法 を 守
りながら精進潔斎しつつ旅をする、というものでした。参詣道も急峻なと
ころが少なくなく、熊野に参詣すること自体が難行苦行だったのです。
しかし、室町時代になり、皇族や貴族、武士だけでなく、豪商・豪農層
が 先 逹 や 、 熊 野 で 宿 な ど を 提 供 す る 御 師 ( お し )、 伊 勢 神 宮 の 「 お ん し 」
と同じようなものですが、その御師に勧誘されて熊野に参詣するようにな
りました。
やがて戦国時代の混乱期ののち、安土桃山時代、江戸時代と、西国三十
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熊野へ参ってからさらに西国三十三所巡礼に向かうということ
三所巡礼が活発になるに従い、熊野は再び盛んに参詣されるようになった
のです。
伊藤あや
西国三十三所巡礼というのは、和歌山、奈良、大阪、兵庫、京
ですか。その西国三十三所巡礼とはどういうものなのでしょうか。
伊藤文彦
都、滋賀、そして岐阜にある観音信仰の霊場を巡礼するものです。一番札
所 の 那 智 山 青 岸 渡 寺 か ら 三 十 三 番 札 所 、現 在 の 岐 阜 県 の 谷 汲 山 華 厳 寺 ま で 、
札所を順番に巡っていくのですね。私たちに馴染みがある四国
千キロメートルほどの巡礼の旅が必要だったことになります。
伊藤あや
はい。西国三十三所巡礼の場合、それぞれの札所には、観音像
八十八ヶ所遍路と同じですね。
伊藤文彦
があります。これを札所本尊と呼びます。札所本尊は、その寺院の本尊と
は異なる場合もあります。秘仏として扱われるものも多く、中には数十年
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に一度しか開帳しないものもあります。
観音菩薩は、千手観音や如意輪観音など、救済を求める人々の願いに応
じて、三十三の異なる姿に変身するとされ、一説には三十三箇所という札
西国三十三所巡礼のルートというのは、熊野の那智の青岸渡寺
所寺院の数もそれに由来する、といわれています。
伊藤あや
を 一 番 と し 、三 十 三 番 目 が 今 の 岐 阜 県 の 華 厳 寺 と の こ と で す が 、そ も そ も 、
熊野から始めて岐阜で終わるという、その順番を決めたのは、どういう理
実はですね、西国三十三所巡礼が始まった当初は、どうもこの
由なのでしょうか。
伊藤文彦
順 番 で は な か っ た よ う な の で す 。滋 賀 県 の 三 井 寺 の 歴 代 の 高 僧 の 伝 記 で『 寺
門高僧記』と呼ばれる古文書があるのですが、それによると、実は三十三
所観音霊場巡礼の一番は、奈良の長谷寺で、最後は京都宇治の三室戸寺だ
ったとされているのです。これは平安時代の終わりごろの話なのですけど
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も、当時はまだ、江戸時代のように庶民が三十三所を巡礼できたわけでは
なく、行者や修行僧などに巡礼が限られていたと思われます。
長谷寺は、藤原道長ら、当時の権力者である摂関家も参詣しています。
平安時代のある時期までは、観音霊場の代表は長谷寺だったのでしょう。
都から出発してまず奈良の初瀬へ、そして京都の宇治に帰ってくるという
都を中心とした巡礼であったようです。
しかし、平安時代の終わり頃、鳥羽上皇や後白河法皇が熊野詣をさかん
におこなうようになるにつれて、那智大社の青岸渡寺を一番札所とするよ
うになったと考えられます。その時点でも、最後の三十三箇所目は、三室
戸寺で、京都に戻るようになっていました。
ところが、室町時代に入りますと、関東地方や東北地方など東国からの
旅人が、まず伊勢参りをして、そのあと熊野詣を行い、さらに、西国三十
三所巡礼を行うという旅のルートがかなり盛んになるようなのです。熊野
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に始まり、近畿一円を回り、最後に岐阜の華厳寺に至るという、現在の巡
礼路は、関東などの東国へ帰る順路として適していました。
ちょうどこの室町時代に、巡礼の「巡」めぐる、という漢字を、順番の
「順」で書き表すことが増えていきます。江戸時代になるとほとんど順番
の「順」です。札所を順番にまわる、そのスタートは伊勢であり、第一番
札所が青岸渡寺である、そういう順番がきまっていくのです。
あ と 、 先 ほ ど か ら 「 西 国 三 十 三 所 」 と 呼 ん で い ま す が 、「 西 国 」 と い う
のは、都の人にとっては九州などのことなのですね。近畿を「西国」と呼
ぶのは。関東の人たちです。つまり「西国三十三所巡礼」と呼ぶようにな
なるほど、主に関東の庶民による西国三十三所巡礼が、とくに
ったのも、関東からの巡礼者が増える室町時代からですね。
伊藤あや
熊野参詣道伊勢路を理解する上で、大きなポイントになるわけですね。
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西国三十三所観音霊場巡礼札所
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西国三十三所観音霊場札所一覧
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熊野参詣道伊勢路について
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伊藤あや
それでは次の話題に移りたいと思います。その熊野参詣道伊勢
路についてお聞きします。まず、熊野参詣道伊勢路とはどういう道だった
今もそうなのですが、正直、歩きにくい道だった、かなり険し
のでしょうか。歩きやすい道だったのでしょうか。
伊藤文彦
い道だったと思います。まず、伊勢路の全体をざっとみますと、伊勢神宮
から大紀町と紀北町にかけての荷坂峠道やツヅラト峠道に至るまでは、山
道らしい箇所は少なく、比較的に高低差の少ない歩きやすい街道です。
しかし、荷坂やツヅラト峠道から南は、アップダウンの激しい、厳しい
峠道が連続します。熊野市の松本峠を抜けると、花の窟の辺りで、南の新
宮の速玉大社へ向かう、通称「浜街道」か、熊野本宮大社へ向かう「本宮
道」に分かれます。新宮へ向かう場合、もう急な山道の上り下りはありま
せ ん が 、「 浜 街 道 」 は 、 ほ ぼ 直 線 的 に 新 宮 を 目 指 せ る 反 面 、 河 口 付 近 や 波
打 ち 際 に 近 い 箇 所 を 歩 く 時 に 遭 難 事 故 が し ば し ば 起 こ り 、「 親 知 ら ず 子 知
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ら ず 」な ど と 呼 ば れ て い た よ う で す 。
本宮道はこの先も横垣峠や風伝峠、
万歳(ばんぜ)峠など、峠を延々と
その険しさが聞いている
越えていくことになります。
伊藤あや
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だけでも伝わってきますね。ただ、
一方で伊勢路は美しい景色が楽しめ
伊勢路の美しさ、という
る道とも言われていますね。
伊藤文彦
と、紀北町から尾鷲市に通じる馬越
峠道をイメージされる方が多いかも
しれません。峠道には石畳が敷かれ
た所も多く、それと周囲のスギやヒ
七里御浜
ノキの林の美しさとがマッチして、非常に美しいわけです。浜街道に沿っ
た七里御浜も、太平洋を望む美しい浜です。絵図でみると、江戸時代は街
道ではなく、浜を歩く旅人の姿が描かれています。西国三十三所巡礼の旅
人は、まず第一番札所のある那智を目指すわけですから、通常、この浜街
昔の街道といえば、まず思い浮かぶのは東海道ですが、そのよ
道を通ったと考えられます。
伊藤あや
たとえば、東海道といいますと、江戸時代に、京・大坂と江戸
うな有名な街道とは違いがあるのですか。
伊藤文彦
を結ぶ街道として最も重視された街道ですね。江戸と京都の間に五十三の
宿 場 が 整 備 さ れ て 、「 東 海 道 五 十 三 次 」 と 呼 ば れ て い ま し た 。
東海道は、江戸幕府によって街道の幅も五間、約九メートルを基準とし
た広い道でした。また、大名の参勤交代や物資の輸送路として利用され、
街道の行程の目印となる一里塚も設け、いくつかの河川には橋や渡し船を
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置かないといった軍事的な配慮もなされた街道です。
それに対し、熊野参詣道伊勢路は、伊勢神宮と熊野速玉大社、熊野本宮
大社とを結び、主に熊野参詣を目的とする旅人が利用する街道でした。伊
勢神宮から田丸までは、伊勢本街道や参宮街道など、他の街道と重複する
区間があるのですが、大部分の街道は、紀州藩領となっており、江戸時代
の初めに、藩主の徳川頼宣により、和歌山城下から紀伊半島をぐるりとま
わる街道の整備を行いました。
これは熊野往還道と呼び、伊勢と和歌山を結ぶ、藩内の交通路として重
視したのだと思います。一里塚も設置するなど、とくに街道が参詣道であ
ることを意識しての整備だったかもしれません。石畳もこの時に整備した
伊勢路の場合、峠道が連続するので、旅人は随分と苦労したそ
所もあると思います。
伊藤あや
うですね。
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伊藤文彦
それはそれは苦労した
ようです。伊勢路の最大の難所が
「八鬼山越え」という道です。馬
越峠道のように石畳が敷かれてい
る箇所が多い所ですが、江戸時代
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の旅人は散々苦労をして峠越えを
したようです。二度とこんなとこ
ろこない、とかね、日記にかいて
あ る も の も あ る ん で す よ 。「 八 鬼
山越え」について、伊勢路の中で
も 特 徴 的 な の は 、「 町 石 」 と 呼 ば
れる、一町つまり一〇九メートル
ごとに設置されたお地蔵さんの形
八鬼山越えの道と町石 (尾鷲市)
をした道標があり、かつては「八鬼山越え」の峠までの五〇町の間に、一
町ごとの目印となっていたと思われます。
今では数も三十三体、決して一町ごとに並んでいるわけではありません
が、これら町石は、主に一五七三年から九一年まで続いた、天正年間、ち
ょうど室町幕府が倒れて、織田信長や豊臣秀吉が天下取りを目指していた
頃ですね。その頃、伊勢の山田、河崎、大湊といったあたりの人々によっ
今もそのようなものが残っているのはすごいですね。ところで
て寄進されたことが石仏に刻まれています。
伊藤あや
はい、実はその点は重要です。先ほどの東海道などでは、宿場
昔の人は、伊勢路を旅するにあたり、宿や食事などの心配はなかったので
すか。
伊藤文彦
町も整備され、街道途中にも茶店などもあり、お金さえあれば、旅をする
のに不自由はあまりなかったと思います。一方で伊勢路の場合も、基本、
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宿は村々にあり、街道もそれら村をつないでいて、まったく無人の
山中、荒野をひたすら行かなければならない、あるいは夜は野宿し
なければならないというわけではないのですが、峠などには茶屋の
ある所もあるとはいえ、やはり昼ご飯は持っていないと不便でした。
そ の た め 、「 飯 行 李 ( め し ご う り )」、 つ ま り 弁 当 箱 を 持 参 し 、 泊 ま っ
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た宿でお昼用のお弁当を用意してもらう、と
いうのがあったようです。
旅日記を見ると、ちゃんと宿代に弁当代も
含まれているのが記されています。その「飯
行 李 」 は 、「 笈 摺 」 と い っ し ょ に 田 丸 で 購 入 で
宿を出発する際に、持参した「飯
きたようです。
伊藤あや
行 李 」、 お 弁 当 箱 に 宿 で お 弁 当 を 入 れ て も ら え
飯行李
(三重県立熊野古道センター所蔵)
まったくそのとおりですね。街道沿いに食堂や露店があるのも
る、というのは、なんだか旅も楽しくなりますね。
伊藤文彦
いいですが、峠道の多い伊勢路だと、山の中でお昼ご飯時になることもあ
るでしょうから、お弁当があるのはうれしいですね。現代でも歩いて旅を
一泊二食でさらに昼食付きになるのですね。ところで今、私た
する場合だと、今でも必要なシステムと言えますね。
伊藤あや
ちは世界遺産の呼び方に従って、熊野参詣道と申し上げていますが、昔は
どのように呼ばれていたのでしょうか。また、参詣道と呼ぶことにどうい
そうですね、多くの皆さまはおそらく「熊野古道」という呼び
う意義があるのでしょうか。
伊藤文彦
方に一番親しまれているのではないかと思います。これは、熊野にある古
い雰囲気のある道ということで、いわば現在の愛称です。江戸時代にはど
う 呼 ば れ て い た か 、 と な り ま す と 、 道 標 な ど を み て み ま す と 、「 く ま の み
37
ち 」 と か 「 さ い こ く み ち 」、 西 国 巡 礼 道 と い う 意 味 で す が 、 そ の よ う に 記
さ れ て い る こ と が 多 い で す 。 そ れ か ら 、「 熊 野 街 道 」 と い う 呼 び 方 も あ り
ます。これは現在の国道などでも使われている名称でもあります。
では、熊野参詣道というのは、どういう意味か、と申しますと、これは
ずいぶん意味が変わってきます。これは、熊野へ参詣するための道、つま
38
り熊野への巡礼路なのだ、という意味が加わるのですね。そうすると、熊
野参詣道の場合、人々が往来する、行き来する街道というより、熊野三山
野中の道標
(多気町)
への巡礼が目的の道という意味が前面に出てきます。そして、この道は旅
人にとっては、熊野三山を目指した一方通行の道という意味合いを強く示
すことにもなっていきます。
熊野参詣道伊勢路の場合、江戸時代には、ほとんどの人が伊勢神宮と熊
野を往復するのではなく、その後に西国巡礼へと向かうため、伊勢から熊
同じ熊野参詣道ですが、和歌山県や奈良県の場合、中辺路や、
野へという、いわば一方通行なのですね。
伊藤あや
その通りでして、熊野参詣道には、伊勢路以外にも、和歌山県
小辺路というように分かれていましたよね。
伊藤文彦
の田辺市から本宮大社へ向かう中辺路や、田辺市から大きく紀伊半島沿岸
に沿って那智大社へ向かう大辺路、そして高野山と本宮大社を結ぶ小辺路
があります。那智大社と本宮大社を結ぶ峠道や、那智大社と速玉大社を結
ぶ道は、中辺路に含まれます。また、田辺と大坂の間は、単に紀伊路と呼
39
紀伊山地の霊場と参詣道
40
伊藤あや
別ルート、と言ってもよいと思いますが、その歴史的な背景も
それぞれの霊場へ向かう別ルートと考えていいのですか。
ばれています。
伊藤文彦
異 な り ま す 。中 辺 路 は 先 ほ ど か ら 述 べ て い ま す よ う に 、平 安 時 代 か ら 皇 族 、
貴族などが京都から熊野詣を行う際に通った道ですが、大辺路は、江戸時
代に入って、紀州藩の交通網整備の一環として整えられたとされています
が、いつ頃から利用された道かはよくわかっていません。しかし、参詣道
としての利用は、江戸時代の西国巡礼に際してで、景色がきれいなので観
光がてらに通行した道と考えられています。
また、小辺路は、高野山と本宮大社を最短距離で結ぶ急峻な道で、元は
紀伊山地部に住む人々の生活道路的な性格だったとされますが、江戸時代
に な る と 、熊 野 参 詣 道 と し て 利 用 す る 記 録 が あ り ま す し 、そ れ 以 前 で も「 修
験の道」として、修験道に励む行者が利用した道ともされています。伊勢
41
路もそうですが、中辺路以外は、主に江戸時代以降、庶民を中心とした霊
江戸時代の庶民による巡礼の増加ということですが、当時、熊
場巡礼の風習の増加に伴って、参詣道としての利用が広がったと考えられ
ます。
伊藤あや
野 参 詣 道 伊 勢 路 の こ と を 絵 や 文 字 で 紹 介 し て い る『 西 国 三 十 三 所 名 所 図 会 』
という本があったとお聞きしました。この名所図会とはどういうものなの
名所図会というのは、江戸時代に刊行された、全国各地の名所
でしょうか。
伊藤文彦
旧跡や景勝地の由来について挿絵を交えて紹介する名所案内書のようなも
の で す 。『 西 国 三 十 三 所 名 所 図 会 』 は 、 嘉 永 ( か え い ) 六 年 、 一 八 五 三 年
に大坂の暁鐘成(あかつきかねなり)という人物が著したものです。江戸
時代になると、庶民による各地の寺社仏閣への参詣が盛んになります。こ
れには物見遊山、観光的な性格もあり、名所図会は旅の道案内に大変重宝
42
伊藤文彦
伊藤あや
そのガイドブック、名所図会には、熊野までの旅の途中の名物
そういう風に考えていいと思います。
当時のガイドブックともいえるものなのですね。
されました。
伊藤あや
もちろん、所々にそんな情報も織り込まれていますね。昔から
のようなものも書かれていますか。
伊藤文彦
熊野は海の幸に恵まれているわけですから、例えば、鰹節が作られている
様 子 の 絵 や 、軒 先 で マ グ ロ の 切 り 身 を 商 っ て い る 絵 な ど も あ り ま す 。ま た 、
食べ物以外でも、七里御浜で採集される那智黒石などを当地の名物として
今でも特産品として知られているものもありますね。こうして
紹介しています。
伊藤あや
新鮮な海産物を食べられるのが、伊勢路の旅の楽しみになっていたのでし
ょうかね。
43
伊藤文彦
旅の様子を記した日記の中には、浜で鯛を買って、宿で料理し
てもらった、なんていう記事もありますから、旅の途中で料理を楽しむ人
もいたようです。ただ、熊野や西国巡礼をする人の中には、肉はおろか魚
旅人によっては、食べ物を楽しみたいと思う人もいれば、精進
も食べず、精進して旅を続ける人もいたようですけどね。
伊藤あや
潔斎する人もいたということですね。
と こ ろ で 伊 藤 さ ん は 、「 伊 勢 か ら 熊 野 へ 聖 地 巡 礼 歩 き 旅 復 活 プ ロ ジ ェ ク
ト」として、伊勢路を伊勢から熊野まで歩いたそうですが、実際に歩いて
そうですね。伊勢路の場合、私は車や観光バスで来て、石畳の
み て 何 か 気 づ か れ た こ と が あ り ま す か 。感 想 も 含 め て お 話 い た だ け ま す か 。
伊藤文彦
きれいな峠道だけを歩いて帰っていく方がほとんどという現状を、もった
いないと思っていたのです。伊勢路は峠道以外でも、いろいろな情景を感
じることができますし、なによりも、旅の目的地が霊場である熊野三山で
44
あるという意識がない、切り離された状態では、その本当の良さというの
は味わえないのではないかと思っていました。
しかし、伊勢路は、現代に生きる私たちが、伊勢から熊野まで通して歩
く価値があるか、本当に感動するのか、人に勧めることができるかは、実
際 に 歩 い た こ と も 無 か っ た の で 、自 信 が あ り ま せ ん で し た 。そ こ で ま ず は 、
実際に歩いてみることにしました。
ただ、一人で歩くよりは、いろんな立場の人と一緒に歩く方が良いのじ
ゃないか、そんなことを思いまして、最初は知人に呼びかけ、さらにその
知人が別の知人を呼び込んでくれまして、日本の各地、海外では台湾の知
人なども集まり、上は七十五歳から下は九歳まで、結果的に多くの人と伊
歩 い て み た い と 思 っ て い て も 、一 人 で 歩 く の は 躊 躇 し ま す よ ね 。
勢から熊野まで踏破することができました。
伊藤あや
それで目的地の熊野まで着かれた時、いかがでしたか。
45
伊藤文彦
実 際 に 、 熊 野 本 宮 に た ど り 着 い た と き 、「 お ー 」 っ て 、 両 手 を
あげて「ついたー」って叫んでいるのです。熊野参詣道伊勢路のすばらし
さ、その良さ、頭では分かっていましたけど、それを身体全体で、ちょっ
とキザかもしれませんが、心の底、魂で感じたというか、実感したように
思います。それを達成感と言っても良いかもしれませんし、無事につけた
という安堵感といっても良いかもしれませんけど、思い返してみますと、
一番大きかったのはこれで旅が終わるという寂しさ、だったのじゃないで
しょうか。
もちろん、伊勢から熊野までの道中でも、峠道から見える景色、雰囲気
のある建物、石仏、宿、食べ物など、私を含め、参加者の皆さんも、歩き
旅の面白さを感じながら歩けたと思います。道中の安全という意味では、
昔と比べたら今のほうが随分安全に旅ができると思いますが、それでも歩
き続けるということは、決して楽なことではありません。山登りの好きな
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メンバーもいましたが、平地の、それも国道沿いの歩道を延々と歩く場所
な ど で は 、「 や る 気 」 と い う か 「 歩 く 気 」 を 維 持 す る の が 大 変 で し た し 、
あたりが暗くなってからも宿を目指してひたすら歩く必要があったときな
周りの景色で気が紛れているうちはいいのでしょうけど。暗く
んかは、本当に気が滅入ります。ちょっと怖いような、そんな感覚があり
ました。
伊藤あや
はい。また皆と予定が合わず、一人で歩いた区間もあったんで
なると大変ですね。
伊藤文彦
すけど、一人で歩くと、疲労感がいっそう激しくてもう、心が折れそうに
なりました。こうしてみると、江戸時代も今も、伊勢から熊野まで歩く旅
の苦労はあまり変わらないのではないかと思いました。
幾多の苦難を乗り越えて、聖地熊野へたどり着く。無事にたどり着けた
のは、天候に恵まれたなら、それは大自然のおかげだったり、無事に歩き
47
伊勢から熊
野へ聖地巡
礼歩き旅復
活プロジェ
クトの様子
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通したのは、沿道で出会う人々の助けのおかげだったりするわけですが、
一つの旅を無事に乗り切ったことへの感謝の気持ちが自然と湧き上がって
お話をお聞きするだけで、伊藤さんが目的地の熊野三山へたど
くる。これこそが巡礼旅、そして巡礼道の本当の素晴らしさなのだと思い
ます。
伊藤あや
り着いて、感動されている姿が目に浮かんできます。ところで三重県内で
そうです。文化財として日本の法律で保護されていて、世界遺
は、世界遺産登録されているのは、峠の道が中心なのですよね。
伊藤文彦
産登録されている区間は、峠道が中心となっていて、里の中を通る道や市
街地の街道は厳密には世界遺産に含まれません。
ただ、そういう部分でも、所々に江戸時代から変わらない風景が残って
いたり、江戸時代の道標や石仏を見かけたりすることもあるのです。よう
するに、アスファルトの道だろうと、世界遺産に登録されている峠道の部
49
分だろうと、これらすべてが熊野の霊場へ向かう参詣道の一部ということ
になりますから、歩いて霊場までたどり着くことができる道全部に本来の
価値があると言って良いと思います。この道は熊野三山という霊場へとつ
ながっている道なのだと意識すること、これが何より大切なのです。
実は、法律で保護するために行う文化財の指定は、その歴史的な価値も
大切ですが、その土地と結びついて現在も確認できるものか、あるいは遺
跡となってその痕跡を残していると証明できることが前提となります。し
たがって、大きく形状や周囲の景観が改変されている場合は、その対象と
そ う で す ね 。巡 礼 道 と し て 砂 浜 や 川 を 含 む 、と い う の が こ の「 紀
峠道だけでなく、七里御浜や熊野川も熊野参詣道に含まれてい
ならないことが多いですね。
伊藤あや
ますよね。
伊藤文彦
伊山地の霊場と参詣道」の大きな特色の一つだと思います。七里御浜は、
50
本 来 の 街 道 と は 違 い ま す が 、『 西
国三十三所名所図会』の挿絵に、
松林の中の街道ではなく、浜を新
宮に向かって歩いている旅人の姿
が描かれています。それも一人二
51
人でなく、何人も、ですね。実際
の様子を描いたものでないにしろ、
そのような人々が普通にいたこと
がうかがわれますね。
それと、熊野川ですが、これは
もちろん街道というよりは川船の
道、航路ということですね。これ
は、熊野本宮に参詣したのち、川
西国三十三所名所図会(七里御浜)
(早稲田大学図書館所蔵)
船で新宮、速玉大社へ向かうことも少なくなかったようです。両岸の景色
が言葉にならないほど美しい、などと紹介している本もあります。本宮大
社と速玉大社は、熊野川の両岸が絶壁に近い景観だったため、陸地を行く
そうなると、世界遺産に登録されている峠道だけでなく、街中
には険しく、なかなかの悪路だったのでしょう。
伊藤あや
そうです。世界遺産登録されている区間は寸断していますが、
や国道沿いの道でも伊勢路を知るうえで重要ということになるのですね。
伊藤文彦
本当に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を理解するには、登録されて
参詣道の魅力というものは、目的地までつながって歩けるとい
いる区間以外の道についても合わせて考える必要があると思います。
伊藤あや
うことにあるのですね。
52
紀伊山地の霊場について
53
伊藤あや
それでは次に、参詣道の目的地といいますか、世界遺産の霊場
と な っ て い る 所 に つ い て 、お 話 を う か が い ま す 。紀 伊 山 地 の 霊 場 と し て「 熊
野 三 山 」「 高 野 山 」「 吉 野 ・ 大 峯 」 の 三 か 所 が 登 録 さ れ て い る の で す が 、 と
く に 「 熊 野 三 山 」 に つ い て お 聞 き し ま す 。「 熊 野 三 山 」 は 、「 速 玉 大 社 」「 本
宮 大 社 」「 那 智 大 社 」 の 3 つ の 神 社 を 総 称 さ れ て い る よ う な の で す が 、 こ
伊勢神宮の内宮、外宮の関係と、熊野三山の三つの神社の関係
れは伊勢神宮の内宮と外宮のような関係なのですか。
伊藤文彦
とは少し違いますね。熊野三山の場合、熊野本宮大社は熊野坐神社(くま
のにますじんじゃ)ともいわれ、家都御子神(けつみこのかみ)を主祭神
とする神社です。熊野速玉大社は、熊野速玉神(くまのはやたまのかみ)
と熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)を主祭神とする神社です。熊野那
智大社は、那智の大滝を祭神にしていたもので、元々は修験の修行場とも
いわれ、社殿の建築は、他二社より遅れたとされていますが、主祭神とし
54
て熊野夫須美神を祀るようになりました。この三柱の神様は、それぞれ、
家都御子神はスサノヲノミコト、熊野速玉大神はイザナギノミコト、熊野
夫須美大神をイザナミノミコトであるとして説明される場合もあります。
また、日本に仏教が伝わってきたあと、神様と仏様が融合する考え方が
生まれます。これを、神仏習合思想というのですが、そのなかで、家都御
子神は阿弥陀如来、熊野速玉大神を薬師如来、そして熊野夫須美大神を千
手観音菩薩のそれぞれ化身なのだとして信仰されるようになります。それ
で、この熊野三山の主祭神を合わせて、熊野三所権現と呼んでいました。
いまでも、熊野権現、熊野三所権現、という言い方はよくします。このよ
うに三つの神社は主にお祀りする主祭神はそれぞれ異なるのですが、それ
ぞれの神社の社殿においては、三所権現にあたる三柱の神すべてを祀って
います。ですから、熊野三山には、三つの神社間にランクのようなものは
ありませんでした。
55
伊藤文彦
伊藤あや
伊勢神宮は内宮と外宮を合わせて正宮(しょうぐう)といいま
伊勢神宮の場合は少し違いますね。
す。他に別宮と呼ばれる正宮に次ぐ社、さらに摂社、末社、所管社として
ランク分けされた神社を含めて一二五社が伊勢神宮を広い意味で構成して
います。正宮とする内宮と外宮も、皇祖神とするアマテラスオオミカミを
祀る内宮に対して、その御食、つまり食事を調ずる豊受大神を祀る外宮と
そうすると、熊野の場合、3つの神社は、日本の神話に登場す
いう関係にあります。
伊藤あや
るイザナギ、イザナミ、スサノヲを祭神としているのですね。すると伊勢
神宮の内宮のアマテラス、これらの神々の関係は、神話の中では確か親子
イザナギとイザナミは夫婦で、日本の国生みをした創世神です
や兄弟でしたよね。
伊藤文彦
ね。アマテラスとスサノヲはイザナギの体から生まれたとされ、二柱の神
56
日 本 の 神 話 の 原 点 が 、伊 勢 と 熊 野 に あ る わ け で す ね 。と こ ろ で 、
は姉弟ということになります。
伊藤あや
伊勢神宮は古代においては、皇祖神を祀る関係上、天皇のみが
伊 勢 神 宮 と 熊 野 三 山 の 違 い は 、そ の ほ か に は ど う い う と こ ろ と 言 え ま す か 。
伊藤文彦
幣帛、神への捧げものを奉じることができ、その勅使として皇族や上級の
貴族が参詣する、あるいは天皇の代理として任命された斎王が神宮に奉仕
する以外は、参詣そのものが許されませんでした。熊野三山の場合は、平
安 時 代 に は 皇 族 や 貴 族 の 参 詣 が 頻 繁 に 行 わ れ ま し た が 、ど ち ら か と い え ば 、
それ以前から、行者らによる霊場または修行の場として、盛んに参詣の対
象となっていました。
この古代における参詣のあり方は、非常に大きな違いです。それが中世
以降、武家社会となり、さらに戦乱の収まった江戸時代に入ると、庶民で
も伊勢や熊野への参詣が飛躍的に増えました。これは、それまでの皇族や
57
貴族らによる寄進等で成り立っていた経済基盤が大きく崩れ、それを克服
するために御師らが広く庶民層まで営業活動を行っていた、そのことが一
つの原因です。
その結果、霊場のあり方も大きく変質していきました。この時点で庶民
にとって伊勢も熊野も垣根がなくなり、商売繁盛、五穀豊穣などの現世利
そうなのですね、よくわかりました。では、話を変えまして、
益を願う信仰、そして物見遊山の気分で旅を楽しむようになったのだと思
います。
伊藤あや
世 界 遺 産 に 登 録 さ れ た 紀 伊 山 地 の 3 つ の 霊 場 、「 熊 野 」「 高 野 」「 吉 野 」 の
本来、高野山は平安時代に空海を開祖とする金剛峯寺を真言密
違いというはあるのでしょうか。
伊藤文彦
教の総本山とする仏教の聖地、吉野の金峯山寺は、日本古来の山岳信仰な
ど自然崇拝に基づく修験道の本山で、山上ヶ岳の大峰山寺を含め、付近一
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帯は、修験道の霊場であり、修行場でした。修験道は、山奥を歩き、荒行
をしたりして修行を重ねることで、神仏に少しでも近づこうとするもので
す。
熊野三山は、元来神社であり、紀伊山地の三つの霊場は、それぞれ根本
の 異 な る も の だ っ た の で す が 、紀 伊 山 地 と い う 比 較 的 近 接 し た 地 域 に 、神 、
仏、修験という異なる聖地が形成され、平安時代になると、当時の神仏習
合思想も高まり、それぞれが一体となり、紀伊山地の霊場として有機的に
なるほど。これらの3つの特徴のある霊場とそれをつなぐ参詣
結びつき、国内でも稀有な地域となったわけです。
伊藤あや
道が紀伊山地にまとまって所在する、そういうところが一つの世界遺産と
して評価されたわけですね。
それでは、もう一度、熊野に話を戻しますが、三重県には世界遺産登録
されている霊場は含まれていないようなのですが、伊勢から熊野三山まで
59
向かう間に、そのような場所はな
世界遺産の霊場として
かったのでしょうか。
伊藤文彦
登録されている三重県の資産はあ
りませんが、ある意味、小規模な
60
霊場と考えられるものはいくつか
あったと考えられます。それは、
寺 院 や 神 社 だ け で な く 、修 行 の 場 、
祈りの場というものも含まれま
す。三重県の場合、代表的なのが
熊野市の花の窟です。ここは『日
本書紀』の中に、国生みの神イザ
ナミノミコトの墓の場所として考
西国三十三所名所図会(花の窟)
(早稲田大学図書館所蔵)
えられてきた場所で、古くから信仰のあった場所です。岩壁の窪地にお経
が納められたりもしていたようです。
花の窟は、熊野三山や高野山のような大規模な霊場ではありませんが、
『いほぬし』にもそ
の記述があり、景勝
61
地であることもあっ
て、江戸時代には庶
民の信仰を集め、熊
野へ参詣する前に必
ず立ち寄る所だった
ようです。花の窟以
外にも、修験道の行
者にまつわる場所が
花の窟(熊野市)
街道沿いにみられます。例えば馬越峠道の近くの聖観音や三十三体の観音
ありがとうございました。
石仏を安置した岩屋堂、あるいは八鬼山越えの荒神堂などがありますね。
伊藤あや
62
世界遺産を語る
63
伊藤あや
それでは最後に、世界遺産の意義についておうかがいしたいと
思 い ま す 。「 紀 伊 山 地 の 霊 場 と 参 詣 道 」 の よ う な 、 霊 場 ま た は 聖 地 と そ こ
世界遺産の中で、聖地への巡礼や参詣のための道が資産の中心
へ向かう道が世界遺産となっているものはあるのでしょうか。
伊藤文彦
として最初に登録になったのは、スペインの「サンティアゴ・デ・コンポ
ステーラへの巡礼路」です。一九九三年に世界遺産に登録されました。次
に 登 録 さ れ た の は 、「 紀 伊 山 地 の 霊 場 と 参 詣 道 」 で 、 二 〇 〇 四 年 で す ね 。
そ し て 最 近 、 パ レ ス チ ナ か ら 申 請 さ れ 、 二 〇 一 二 年 に 登 録 さ れ た の が 、「 イ
エス生誕の地 ベ
:??レヘムの聖誕教会と巡礼路」です。さらに、二〇一三
年に登録された日本の「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」の中の富士登
拝のための登山道は、信仰の道と言えるかもしれません。
あとは二〇一〇年に登録されたメキシコの銀の道や島根県の石見銀山街
道 、そ し て 今 年 、二 〇 一 四 年 登 録 と な り ま し た 、有 名 な シ ル ク ロ ー ド な ど 、
64
道が世界遺産に含まれるものがありますが、これらは物流の道として評価
す る と 、世 界 遺 産 と し て 道 が 資 産 に 含 ま れ て い る も の が 少 な く 、
されたもので、信仰の道ではありません。
伊藤あや
そのうち、巡礼や参詣のための道となると、スペインとフランスの「サン
テ ィ ア ゴ ・ デ ・ コ ン ポ ス テ ー ラ へ の 巡 礼 路 」、 パ レ ス チ ナ の 「 イ エ ス 生 誕
の地 ベ
:?? レ ヘ ム の 聖 誕 教 会 と 巡 礼 路 」、 そ し て 日 本 の 「 紀 伊 山 地 の 霊 場 と
参 詣 道 」、 考 え 方 に よ っ て は 「 富 士 山 ― 信 仰 の 対 象 と 芸 術 の 源 泉 」 も 含 め
そ う で す ね 。 し か も 総 距 離 が 百 キ ロ を 越 え る 信 仰 の 道 は 、「 サ
ても、それだけなのですね。
伊藤文彦
ンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路」と「紀伊山地の霊場と参詣
伊藤さんは「サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路」
道」だけですね。
伊藤あや
を実際歩かれたということですが、その感想や熊野参詣道と比較してその
65
「サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路」はスペイン
違いなどいかがでしょうか。
伊藤文彦
の西部にあるキリストの弟子の一人、聖ヤコブを祀る聖地サンティアゴ・
デ・コンポステーラ大聖堂をめざす巡礼路です。熊野参詣道と同様、千年
以上の歴史がある古い巡礼路で、本来、この巡礼路はヨーロッパ各地から
このスペイン西部のサンティアゴ・デ・コンポステーラまでつながってい
るのですけども、そのなかでもフランス人の道と呼ばれるフランスからス
ペインの北部を一直線に結んでいく道、これを中心に世界遺産に登録され
ています。
私が実際に歩いたのは、この巡礼路の最後の部分、サンティアゴ・デ・
コンポステーラまであと百十キロの地点からで、なぜそこからかと言いま
すと、実は百キロ以上歩いて巡礼旅を行うと、巡礼証明書を発行してもら
え る の で す 。旅 先 で は 、ク レ デ ン シ ャ ル と い う 巡 礼 手 帳 に 宿 泊 地 や カ フ ェ 、
66
観光案内書など、通過した村
々にあるスタンプを一日二個
以上押してもらうことが実際
に歩いたことの証明になりま
す。
その巡礼路って、
67
伊藤あや
歩いています。し
今でも人が歩いているのです
か。
伊藤文彦
かもかなり大勢の人が。この
サンティアゴ・デ・コンポス
テーラへの巡礼路は、本当に
多くの人が実際に歩いている
巡礼証明書(右上)・巡礼者であることを示す
帆立貝の飾り(左上)・クレデンシャル(下)
んですね。その多くがカップルだったり、夫婦だったり、友人のグループ
や 家 族 連 れ だ っ た り し ま し た 。国 籍 も 様 々 で 、ご 当 地 の ス ペ イ ン 以 外 に も 、
ヨーロッパの各国、南米の諸国、アジアでは韓国の人にも会いました。と
にかく、多くの人がサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指して歩いて
そ ん な に い ろ い ろ な 国 の 人 が 、た く さ ん 旅 を し て い る と な る と 、
いる、これに衝撃を受けました。
伊藤あや
それを受け入れる宿や食堂などは必要でしょうし、道に迷わないための案
そうですね。歩き旅を支える様々な施設もちゃんと整っていま
内板のようなものもあったのでしょうか。
伊藤文彦
した。たとえば、巡礼宿がだいたい四キロごとにはありますし、食事も出
来るカフェが、これも四キロごとぐらいにはありました。それから一番驚
いたのは道標で、分かれ道にはきちんと設置してある上に、それでもわか
りにくいところでは地元の方が、自分の家の壁などにペンキで黄色い矢印
68
サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡
礼路と道標
69
を 書 い て 、方 向 を 示 し て く れ て い る の で す ね 。で す か ら 、地 図 が な く て も 、
ガイドブックがなくても歩き旅が出来るのです。
もちろん、沿道の住民の皆さんも、巡礼者が歩き旅をしていることをご
く ご く 普 通 の 事 と し て 受 け 止 め て い て 、「 良 い 巡 礼 を ! 」 と い う 意 味 の 「 ブ
エン・カミーノ!」という言葉を必ずかけてくれるのですね。そういう巡
今でも巡礼路を地域が一体となって支えているのですね。土地
礼を支えるシステムと人々の気持ちがあるということにも驚きました。
伊藤あや
実は、熊野参詣道を伊勢から熊野まで歩きに行く前に、私はこ
も言葉もわからない場所を、おひとりで歩いて心細くなかったですか。
伊藤文彦
のサンティアゴ巡礼路に行ったのです。ですから、正直、あまり歩きなれ
ていなかったのですけど、とにかく、なかなか大変でした。私自身は4日
間で約百十キロを歩き切ったのですが、正直、巡礼歩き旅がこれほど辛い
ものとは思いませんでした。日本で普通に生活していて、一日に二十キロ
70
サンティアゴ
・デ・コンポ
ステーラへの
巡礼路の様子
(スペイン)
71
や三十キロ歩くことはまずないですよね。しかも毎日です。
巡礼旅の2日目には足や関節が痛くなってきて、杖に頼って足を引きず
って歩くようになっていきました。私は一人旅でしたから、そういう状態
ではすごく心細いですし、言葉も通じないので助けてもらうこともできま
せん。もう辛くて辛くて、たまらないのです。だからこそ、旅の終わりに
聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂にたどり着いたときに
は、もうはじけるような言葉にならない感動を味わうのです。着いた瞬間
に や は り 叫 ん で し ま い ま し た 。「 着 い た ー 」 っ て 。 実 は こ の 聖 地 に た ど り
着いたときに味わう強烈な感動というのが巡礼旅の根源的な素晴らしさ、
お話のように、聖地への巡礼と単なる観光とを区別化している
価値なのだと思い

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